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女子高生の回路

ある人の何気ない行動を、例えばわたしが目に留めて、それがどのような感情に突き動かされたものであるのか思いをめぐらせる。
何事にも必ず因果関係があるというのがわたしの持論であって、そうであるが故、その行動一つ一つも何かしらの思惑があって初めて現れるのである。
それには違いないが、それを本人が自覚しているかはまた別の問題であり、その有無を突き止めるのはわたしにはまだ難しいことである。
あることを突き止めようとするとき、人はその事柄よりずっと先を知り、見据え、自身もそこにいなくてはならないが、実際彼は追い掛ける立場にいるのであり、それに至ることは出来ても、その先を越えるのは不可能である。
わたしはしばしばこの事実を見失う。
追跡者であるわたしは、自分がまるで目標よりはるか先にいるような錯覚を覚え、そしてそれを疑問にも思わない。
それを終えたとき初めて、自分がより後方にいたということを思い知るのである。
つまり、わたしは彼の感情というものを追いかけながら、しかし突き止めたとき、あるいはもっと後になって自分の栄華を創考したとき、追跡者であった自分よりはるか先を走っていた彼の本当の思惑の存在を知って愕然とするのだ。
わたしはこのとき、決まってばつが悪く、また驕っていた自分を反省して恥ずかしくなる。
自覚するべきである。
彼の動機を突き止めることが出来たとしても、それが一体どれだけの思慮の上にあるものなのか、わたしには知る由もない。
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