イリュジアは魔力に満ちた国だ。
城のある中央ともなれば、一層。
故に、魔獣たちが活性化することは、決して珍しくない。
大抵はそうした魔獣の襲撃があったとしても城に待機している騎士たちがすぐに撃退し、被害が出ることはない。
しかし、戦いの得意な部隊の主力が不在となれば、話は別だ。
「まるで狙いすましたかのようなタイミングですね」
苦々しくそう呟き、緑髪の魔術医は唇を噛む。
響き渡った緊急事態を告げるサイレン。
それに応じることが出来た部隊長はジェイドのみだった。
魔獣の群れの襲撃。
決して珍しいことではないとはいえ、そう頻繁に起きる訳でもない事態。
一番の問題は、現在の城に残る騎士たちの人数、戦力の問題だった。
しかしすぐに緩く首を振り、少し足早に城の廊下を歩いた。
現在、この城には戦いが得意な炎豹の主力が居ない。
遠方の街の大型魔獣の討伐に向かってしまっているためだ。
ジェイド自身の部隊……草鹿の騎士の一部と雪狼の騎士たちもそちらの援護に行ってしまっていて、現在の城の戦力は通常時に比べて幾分薄いものだった。
そのタイミングでの襲撃。
人為的なものか、或いは単なる偶然か……
それを考えている暇はない。
今は、城を守らなければ。
その思いで、ジェイドは足を進めた。
城の一角、管制室の役割を果たす水兎の棟。
その部屋で慌ただしく通信の魔術を駆使する部隊長に、ジェイドは声をかけた。
「アンバー、アレクとは連絡が取れましたか?」
「あぁジェイド、取れたのは取れたけど、今から引き返して間に合うか、っていう問題がね……」
眉を下げながら、アンバーは言う。
丁度、炎豹の部隊長も任務に出てしまっていて不在なのだ。
せめて彼が居れば、何とか魔獣を抑え込むことが出来たかもしれないのに。
今泣き言を言っていても仕方がない。
ある戦力で何とかこの場を凌ぐしかない。
「防御だけならば、何とかなります。撃退には、もう少し戦力が欲しいところですが」
「任せて。すぐに援護を呼ぶ。クオンも走り回ってくれてるし、少しの辛抱のはずだ」
アンバーの言葉にジェイドは頷く。
そしてその足で、まだ少し動揺している自身の部下たちの元へと向かった。
ヴァーチェ以上の騎士たちは既に魔獣の多い場所へ赴いて、障壁を張っている。
アークの騎士たちは草鹿の集会室に集められていた。
草鹿の騎士にはまだ幼い者も多い。
皆がパニックを起こしては、取れる統率も取れなくなる。
「心配はいりませんよ。必ず凌げます」
ジェイドはそう言ってまだ幼い部下たちに笑いかける。
少し安堵した表情を浮かべる彼らに、ジェイドは言葉を続けた。
「怪我人が出た場合こちらへ向かわせます。その時の救護をお願いいたします」
「はい!」
幼い騎士たちは励まされたように表情を引き締め、頷いて見せる。
それを見てジェイドは微笑むと、集会室を出た。
***
こんなにも多くの魔獣が攻めてくるのは久しぶりだ。
それも、今はそれを追い返せるだけの戦力がない。
怯えている、不安を抱いている仲間達の感情が伝わってくる。
白髪の少年……アルは顔を歪めながら、必死に障壁を張った。
きっとそんなことはないと信じている。
信じている、けれど。
―― もし、突破されてしまったら……
そう思うと、背筋が凍る。
少し荒くなりかけた呼吸を整えようとした、その時。
「アル、少し力を抜いても大丈夫ですよ」
そんな優しい声が響く。
はっと顔を上げたアルは、そこに立っていた上官の姿を見て黄色の瞳を大きく見開いた。
「ジェイド様……!」
「大丈夫、必ず耐えられます」
そう言って、ジェイドは微笑む。
そして、表情を引き締めながら、自身の武器である弓を取り出し、魔獣に向かって矢を放った。
彼も戦闘が得意な方ではない。
しかし時間稼ぎ程度ならば。
どうしても近づいてくる魔獣を射落すくらいならばできる。
せめて、それくらいはしなくてはならない。
「アル、この場は私に任せて、他の場所の援護をお願いいたします」
「わかりました」
アルは力強く頷くと、その場を離れていった。
ジェイドはその背を見送ると、自身の敵の方へ視線を向ける。
ひしめき合う魔獣たち。
決して強い魔獣ではない。
その証拠に、草鹿の騎士たちが張った障壁を突破して入ってくるような魔獣は居ないのだ。
しかし、ずっとこの状況が続けば……
「なるべく、早くこの状況を打開しなくては」
少しでも、魔獣を減らさなければ。
今この場で戦える騎士は決して多くはないのだから。
ジェイドはそう思いながら、幾度も矢を番え、放った。
***
どれくらいの時間、戦っているのだろう。
どのくらいの矢を放っただろう。
水兎の騎士たちは援軍の確保に成功しただろうか。
自分が居るこの場所以外で戦っている部下たちは無事だろうか。
取り留めもない思考にからめとられそうになった、その時。
「集中しなくては危ないですよ」
聞こえたのは冷静な声。
聞き慣れた、頼もしい声。
ジェイドは翡翠の瞳を見開いて、その声の主の方を見た。
「先生!」
驚き、声を上げるジェイド。
その瞳に映るのは、長い淡水色の髪の男性……カルセで。
「どうやら大変なことになっているようで。丁度近くに居たので駆けつけたのですよ」
穏やかに微笑んだカルセは優しくジェイドの頭を撫でる。
もう幼い騎士ではない。
一応は一部隊の部隊長を務めているというのに……その手に安心してしまう。
きっと、先刻のアルのように追い詰められた表情をしていたのだろう。
そう思うと少し、恥ずかしい。
ジェイドはそう思いながら苦笑を漏らした。
肩から多少力が抜けたジェイドを見て、カルセは微笑んだまま、いった。
「此処は私に任せなさい。すぐに援軍が来るはずだとアンバーが言っていましたから」
そう言われて、ジェイドは翡翠の瞳を瞬かせる。
驚きと戸惑い。
その両方の感情を灯し、視線を揺らしたジェイドは声を上げる。
「し、しかし……」
視線が向くのは、自身が、部下たちが張った障壁の先。
まだまだ数が居る、魔獣たち。
何処から湧き出しているのか突き止めに行きたいが、そのためには城を離れなければならない。
今は、そうする訳にはいかないのだ。
そんな状況で、この場を自分ひとりでとどめるというカルセ。
それは流石に無茶なのではないか。
流石に、危険すぎる。
ジェイドのそんな言葉にカルセはふっと息を吐く。
そして緩く首を傾げながら、彼に問うた。
「戻りなさいジェイド。それとも私が信じられませんか」
慢心ではない。
確かな自信の籠った声。
それを聞いて、ジェイドはゆっくりと瞬いた後……小さく、首を振った。
「……いいえ。宜しくお願い致します。様子を見て戻ってきたら、援護いたします」
ジェイドはそう言って自身の武器を片手に、城の中へ駆け出していく。
「頼りにしていますよ」
カルセはそう言って微笑むと、魔獣の群れの方へと向き直った。
表情を引き締め、両の手に剣を握る。
そのまま、ひらりと、魔獣たちが居る地面へと降り立った。
「さぁ、かかってきなさい」
私が相手です。
そう呟くカルセの海色の瞳が、鋭く光った。
***
一般的に、草鹿の騎士は戦闘を得意としない者が多い。
援護や防御、治癒の術は得意だが攻撃はそこまで、と言う騎士が多いのは事実だ。
それでも全く問題はない。
そんな彼らだからこそ出来る仕事があり、そんな彼らを支える他部隊の騎士たちが居るのだから。
しかし、カルセは違う。
草鹿の騎士でありながら、彼は戦闘に怯まない。
その両の手に剣を構え、自ら戦場に降り立つ。
まるで剣舞でもしているかのように、剣を振るう。
その様はまるで精霊のようにも、鬼神のようにも見えた。
魔獣たちは自分たちの居る土地に足を踏み入れた騎士を狩ろうと躍起になって攻撃を仕掛けた。
少しでも気を抜けば一瞬で狩られてしまうことは、本能的に察知しているのだろう。
攻撃は荒々しく、容赦のないものだ。
数頭の魔獣がカルセに飛び掛かる。
その腕に噛みつくが……カルセがちらと其方へ視線を向ければ、まるで力が抜けたかのようにその場に落ちる。
「私の魔力に耐えられる獣は、そういないでしょうね」
煌めく、カルセの瞳。
強い魔力が、魔獣たちを包む。
パニックを起こしたように走りまわる獣を一瞥して、カルセは一つ息を吐いた。
カルセの特殊能力は、生物の感覚を弄るというもの。
視覚や聴覚を狂わせ、戦いに影響を与えることはカルセにとって容易いことだった。
カルセの周囲に他の騎士の姿はない。
巻き込みたくない、治癒や防御に集中してほしい。
そんなカルセの言葉で、城に残った騎士たちは遠ざけられていたのだった。
事実、これだけ敵がいる状況では対象を選んでの魔術と言うのは難しい。
故に、離れていてほしいというのはカルセにとって切実な思いなのだった。
「大分、数は減りましたか」
魔術と剣術とで魔獣を切り伏せながら、カルセは周囲へ視線を向ける。
幾らか、数は減ったように見える。
とはいえまだまだ終わりは見えないけれど。
さぁ、もうひと踏ん張りだ。
そう思い、剣を構え直した、その刹那。
「一人で恰好つけてるんじゃねぇぞ!」
鋭い声と、馬の嘶き。
魔獣の群れを裂くように駆け抜けてくる、一つの影。
馬にまたがり、剣を振るっているのは……
「!スファル……」
かつての、パートナーの名を紡ぎ、カルセは驚いた顔をする。
駆けつけた青年……スファルはカルセの横に立ち、自身の剣を振るった。
同時に、魔力を放出し、周囲に集まっていた魔獣を焼き払う。
その勢いと威勢とに、魔獣たちは少し怯んだようだった。
「スファル、何故……」
驚き、声を上げるカルセ。
それを一瞥したスファルはにっと笑い、言った。
「救援信号を受けてな。騎士じゃあないが、戦闘能力は衰えちゃいないぜ。背中は任せろ」
「……頼もしいです」
カルセはそんな相棒に微笑みかける。
そして二人は同時に地面を蹴ったのだった。
***
それから程なくして、事態は落ち着いた。
水兎の騎士と風隼の騎士の活躍で戦闘が出来る人材が確保できたためである。
「先生!」
少し状況が落ち着いてすぐ、駆けつけてきたのは現在の医療部隊長……ジェイドだった。
彼の姿を見たカルセは穏やかに微笑み、彼に向って手を上げて見せた。
「無事でしたか、ジェイド」
「えぇ、僕たちに被害はありません。先生も、ご無事なようで」
ほっと安堵の息を吐くジェイド。
カルセの実力を疑っていたわけではないが、やはり心配ではあったようである。
カルセはそんな彼に頷いて見せると、言った。
「良かった。しかし怪我人が出ているかもしれません、様子を見に行ってきなさいな」
「わかりました」
素直にうなずき、城に戻っていくジェイドを見送って、カルセは藍色の瞳を細める。
彼の様子を見るに、城や城の中で戦っていた騎士たちに影響もなかったのだろう。
無事に事が済んで良かった、と安堵の表情を彼も浮かべる。
「……さて」
小さく息を吐き、スファルはカルセの方を見る。
カルセはそんな相棒を見て緩く首を傾げた。
どうかしたか、と言いたげな彼を見つめ、スファルは眉を寄せ、言った。
「恰好つけるのもその程度にしておけよカルセ」
その言葉にカルセは海色の瞳を瞬かせた。
「おや、何のことでしょう」
微笑み、首を傾げるカルセ。
スファルは暫しそんな彼を見つめていたが……やがて、深々と息を吐き出すと。
「幻術紛いの魔術使いながら何言ってやがる」
そんな言葉と同時、彼はわざとカルセを狙って魔力を放った。
無論、脅しだ。
しかしそれはカルセの集中力を削ぐには十分で。
「っ……」
小さく息を呑んだカルセがふらつく。
彼の周囲の魔力が揺らぎ……スファルが抱きとめたカルセの姿は、酷いものだった。
ぼろぼろの引き裂かれた白衣。
そこに滲む乾いた血はきっと、魔獣のそれだけではないはずだ。
「見せたくないものを見せない、見せたいものを見せる。
そこまで出来る辺り、やっぱりお前は天才なんだろうな」
そう。
カルセは余裕の表情を浮かべているように見せていただけ。
傷一つない、いつも通りの自分を"見せて"いただけなのだ。
「いつから、気づいていたんです?」
恨みがまし気にカルセは言う。
まさか見抜かれるとはおもっていなかったようで、多少の動揺が声に滲んでいる。
それを聞いたスファルは溜息混じりに答えた。
「最初から。ギリギリ許容範囲だったからジェイドの前では恰好つけさせてやったけどこれ以上は看過できん」
「は……貴方の思いやりに感謝しますよ」
呟くようにそう言うカルセはついとそっぽを向く。
拗ねた子供のような表情の彼は、久しぶりに見た気がする。
スファルはふっと笑うと、彼の額を小突いて、言った。
「無茶しやがって」
「後輩の前で恰好つけたいと思うのは、致し方のないことでしょう?」
それが師匠(おとな)のエゴだ、とカルセは言う。
彼らしい意地っ張りな返答にスファルは苦笑を漏らした。
「ま、気持ちはわかるが……後から説教だ」
とにかく城の中に戻るぞ、とスファルは促す。
そしてにやりと笑うと、揶揄うように彼に問うた。
「姫抱きが良いか?」
彼の問いかけにカルセはじとりとした視線をスファルに向ける。
「……そうされたらこの場から魔術でもなんでも使って貴方の腕を引き剥がしたうえで逃走します」
物騒な返答に肩を竦めつつ、スファルは小さく笑ったのだった。
―― 師と弟子と… ――
(可愛い教え子の前では、格好よくありたい)
(それは至極当然の想いでしょう?)