「忘却は救いだと思いますか?」
唐突にそう問いかけられて、紫髪の少年は幾度も瞬く。
そう問いかけてきた当人……長い緑髪の魔術医は、紅茶をカップに注いでいる。
「え……」
どういうことか、と声を上げる紫髪の少年……シスト。
それに応えることなく、魔術医ジェイドは一つ息を吐く。
彼の前にティーカップを一つ置くと、彼の前に腰かけて自身のカップを傾けた。
一口紅茶を飲んだ彼は、翡翠の瞳でシストをじっと見つめる。
そしてカップを置くと……シストの方へ手を伸ばした。
ひんやりとした手が、頬に触れる。
ぴりっとした痛みに思わず眉を寄せるシストを見つめたまま、ジェイドは言った。
「しばしばこういう傷を負って帰ってこられると、医師としては心配なのです」
そう。
シストが今この部屋……草鹿の治療室に居る理由、それは任務中に傷を負ったためである。
決して深い傷ではなかったが念のために治療を、とジェイドに呼ばれたのだ。
ふたを開けてみれば遠回しな説教だった訳だが……それも致し方ない、とシストは苦笑を漏らす。
無茶をした自覚はある。
事実、先刻共に任務に赴いていた相棒にも叱られたくらいだ。
……叱ると同じくらい心配させてしまったという自覚もあるため、ジェイドの言葉に大人しくついてきたのである。
そんなシストの顔を見て、ジェイドは溜息を一つ。
「フィアも心配していましたよ。シストは自分の命をどうとも思っていないかのような戦い方をすることが多い、と」
彼の言葉にシストは大きく目を見開いて……視線を逃がした。
「……それは」
小さく掠れた声を上げ、ジェイドが淹れてくれた紅茶を啜る。
美味しいはずのそれが渋く感じたのはきっと、自分の心理状態故なのだろうと思いながらシストは目を伏せた。
「違う、とは言い切れないのでしょう」
咎めるというのとは少し違う、困ったような声音でジェイドは言う。
叱られた子供のようにシストが顔を上げると、彼はそっと微笑んで、口を開いた。
「気にするな、と言うのは無理な話でしょう。
貴方とエルドがいかに親しかったかはよく知っていますし、事の顛末も知っていますから」
そう。
シストが無茶な戦い方をする理由はジェイドにも、そして恐らくパートナーであるフィアにもわかっていることだろう。
かつての"事故"がシストに残した深い疵。
自分の所為でかけがえのない仲間を死なせてしまったという負い目。
周囲の誰もがシストの所為ではないと思っていても、彼自身がそうは思えない、自分を赦せない。
それ故に、きっと彼自身でさえわからないようなレベルで無茶をしてしまうのだろう。
……自分は死んでも構わない、と言うような戦い方を、してしまうのだろう。
そんなジェイドの言葉にシストは唇を噛む。
カップを包む手に、僅かに力がこもった。
違う、と否定はできない。
実際、相棒(フィア)が傷つくくらいならば自分が傷ついた方が良い、彼を守るためならば自分は命を落としても構わない……そう思っていないと言えば、嘘になる。
ジェイドはカップをソーサーに戻し、一つ息を吐いた。
そしてじっとシストを見つめながら、言葉を紡いだ。
「同じことは起こすまい、今の相棒(パートナー)であるフィアには怪我などさせまい……そう思っているのも、思ってしまうのもよくわかります。
ですが、その所為で貴方が傷つくというのならば、いっそあの子のことを忘れてしまうのも良いのではないか、と思うのですよ」
かつての相棒への想い故にそんな無茶をしてしまうというのなら。
もう同じ過ちを繰り返したくないという想いでそんな無茶をしてしまうのなら。
いっそのこと、全てを忘れてしまう方が良いのではないか。
ジェイドはそう言う。
「忘れて……」
ゆっくりと瞬き、シストは呟く。
それにジェイドは頷いた。
「無論、都合よく"あの日"のことだけを消すことは出来ません。
全てを忘れることになるとして……」
翡翠の瞳でシストを見つめながら、ジェイドは言葉を続ける。
「貴方は、それを望みますか?」
静かで重い声。
シストは目を伏せる。
長い前髪が、彼の表情を隠した。
沈黙が部屋を埋める。
ジェイドは静かにティーカップを傾ける。
言葉を促すこともせずに、ただ静かに彼の答えを待った。
「……いいえ」
沈黙を破ったのは消え入りそうな、シストの言葉。
「望めない……望みたく、ない」
確かに楽になれるだろう。
あの日の夢を見て魘されることも、泣きながら飛び起きることもなくなるだろう。
今の相棒に彼を重ねて勝手な自己嫌悪に陥ることも、自身をなげうつような無茶をすることもなくなるだろう。
……それでも。
「たとえ、忘却が救いであるとしても……俺は、忘れたくない」
確かに別れはつらいものだった。
なかったことにしたいのは事実だ。
けれど……彼(エルド)のすべてを忘れたい訳ではないのだ。
楽しいこともたくさんあった。
彼とパートナーになれてよかったと思っている。
彼がかけがえのない相棒であったことは間違いない。
だから、忘れたくなどない。
忘れてはならない。
例え、あの日の記憶が心を深くえぐり、永遠に血を流し続けるとしても。
「そうですか」
きっと、わかり切った返答だっただろう。
ジェイドはふ、と表情を緩めると、ぽんとシストの頭を撫でて、言った。
「ならば、もうこんな無茶はしないことです。
あの子(エルド)も、貴方がそんな形で自分のところに来ることは望んでいないでしょう」
そう言った彼は、もう一度シストの頬に触れた。
微かな痛みに顔を顰めて、シストは苦笑を漏らす。
「ジェイド様、怒っているんですね」
雰囲気こそ穏やかでいつも通りの彼だが……どうやら、相当ご立腹らしい。
シストの言葉にジェイドは深々と溜息を吐き出した。
「当然でしょう」
やれやれと肩を竦めるジェイド。
シストはそんな彼を見て小さく笑った。
「申し訳ありません、気を付けます」
絶対にしないとすぐには約束できないけれど、とシストは言う。
そんな彼の髪を、頬を、柔らかな風が撫でていった。
―― 忘却は… ――
(忘れることはきっと、救いなのだろう)
(いかに棘だらけの道であろうとも、心が血まみれになろうとも……
それでも、俺は彼奴のことを忘れたくないんだ)