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ただひとつの祈り(kmt:さねげん/ブロマンス的な)

とある、曇り空が広がる休日の昼下がり。
夏も終わろうとしているのと、昨日が雨だったということもあり、海水浴場の人は疎らだった。
少し湿り気が残る砂浜に、すぐそこのコンビニで買った小さな黄緑色のレジャーシートを敷いて、俺と、弟の玄弥は、ただ海を眺めて座っていた。

「いやどういう状況だァ」

俺の疑問符に、隣に座っていた玄弥は「兄貴が連れてきてくれたんでしょ」と、笑って言う。

「そうだけどよォ。海に来たんだから泳ぐとか足つけるとかなんとかあるだろうが」

「え、準備してきてないし無理」

「……だよな」

突発的に海へ来た俺達、だから準備もしている訳もなく。後先考えず海に入ってはしゃいだところで、帰りはどうするんだって話になる。流石に車の中が磯臭くなるのは勘弁だ。
そもそも、なんでこんなところにいるのかと言うと、玄弥が「夏らしいことしてない」なんて言い出すから、安易な考えでじゃあ海にでも行くか、と提案したのが事の発端だった。

「お前、こんなんで夏らしいことしたって言えんのかよ。なんかもっとこう、あるだろ」

「海水浴場に来たってだけで充分夏じゃない?俺、楽しいよ」

「……あっそ」

「兄貴は楽しくないの?」

膝を抱えながら、俺の顔を覗き込む玄弥。
問いには答えず、寝転がる。日差しが強くなくて良かったと思った。

「それよりお前、進路どうすんだよ。そろそろ決めねぇと、マズイんじゃねぇの」

「……今、その話する?」

高校最後の夏。これからの人生、進むべき方向、その他諸々を決めなければいけない時期で。コイツも例に漏れず進路相談の担当と週に一回は面談をしているのを、俺は知っていた。

「まあ、推薦狙いつつダメだった時に備えて勉強はするけど……」

「おい初耳だぞ、それ。どこの推薦狙う気だァ」

「あー、それは……えっと」

なんとなく歯切れが悪い。気になって目線をやると、顔を隠して苦悶していた。
まさか。
身体を起こして、詰め寄る。

「お前、県外の私立を目指してるなんて冗談言うんじゃねぇだろうなァ」

私立はともかく、県外、となると、場所によっては一人暮らしをせざるを得ないだろう。今の不死川家にそんな経済面の余裕があるとは思えない。今年入学したばっかの弟妹もいる。家計のことを考えて、思わず語気が強くなっていた。

「そっ、そんな訳ないだろ!?大体そんな金ないじゃんか、俺ん家」

慌てて否定する弟を見て、ハッとした。そんなこと、一緒に暮らしてる家族だったら分かっていないはずがない。強く言いすぎたと謝ると、大丈夫。と、少し困った笑顔が返ってきた。

「……どこの大学に行くことになってもよ、悔いだけは残すんじゃねぇぞォ」

「うん」

それにしても、つい最近まで兄ちゃん兄ちゃんと俺の後ろを着いてきたあの玄弥が大学受験とは。時が経つのは早いなと、開けた場所に似合わない、じっとりとした思いが駆け巡る。
離れないようにといつも繋いでいた手はいつの間にか俺よりも大きくなっていて、撫でていた頭はいつの間にか俺より高い位置にあって、俺の知らない世界に飛び立ってしまう弟が、なんだか遠い存在に見えて。
雲で隠れている太陽の光が眩しいのかよく分からないけれど、何故か急に目頭が熱くなった。

「……兄貴っ!」

すると、急に玄弥が頭を掻きむしって、それから俺の胸倉を力一杯引っ張った。反応出来ず呆気に取られている俺を尻目に、玄弥が言葉を紡いだ。

「あのっ、俺……兄貴と同じ大学に行きたいんだ」

「……は?」

予想もしていない一言に、思考が追いつかない。ポカンとしている俺を全く気にせず、目の前の野郎はまくし立てていく。

「勿論、今の俺の頭じゃ合格出来ないって分かってるし、数学や英語が難しくてこんなん社会に出て何に役立つんだよって思うし、世界史や地理は覚えることばっかだし政経なんて興味ないし」

「お、おい」

「無謀だって、無茶だって、進路担当の先生にも言われて、毎回毎回志望校変えろって言われて、でも諦めたくなくて、勉強、頑張ってるけど……」

「……」

「……」

寄せては返す自然の音が、辺りを包む。

「……けど、なんだよ」

途切れた言葉の先が気になって尋ねると、胸倉を掴んでいた手が、弱く離れた。

「……もし、合格したらさ。昔みたいに、よくやったって、頭を撫でて欲しいんだ」

照れくさそうな、ばつが悪そうな、気後れしているような、とにかく今にも泣き出しそうな顔で、そんなこと言いやがるから。
ああ。いつまでも、どこにいても、何歳になっても、こいつは俺の弟なんだなと、当たり前のことを思った。

「大丈夫だ」

何が大丈夫かよく分からないのに、口から自然とそんな言葉が出ていたのは、どんな時でも、何があっても、俺はコイツの“兄ちゃん”だからだ。

「兄ちゃんがどうにかしてやるから」

口にした後、昔にコイツとそんなことを約束したような錯覚に陥る。気のせいかもしれねぇが、なんとなく同じ台詞を言った覚えがある。子どもの頃とかじゃなく、もっと昔の話だ。そんなこと、あるわけないのに。

「どうにかって何、」

玄弥が俺の台詞にぶはっと吹き出す。よく考えたらどうにかなる問題でもなかった。急いで付け加える。

「えーと、つまりアレだ。本気で俺と同じ大学に行きてぇなら、俺が使ってた参考書とか、問題集とか、クローゼットから引っ張り出してやるってこった」

「え、それ地味に嬉しいかも。新しいの買おうと思ってたから」

「買う必要ねぇだろ。しかも現役教師が傍にいるんだからどんどん頼れェ」

「え、でも仕事は」

「ばーか」

拳を作り、心配そうに見つめる玄弥の胸元を軽く小突く。

「兄ちゃんはお前が笑ってくれりゃあ、それでいいんだ」

俺の大事な弟。
どうか、ずっとずっと


ただひとつの祈り


笑って幸せな日々を過ごせますように。
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その眼差しに射抜かれる(キ学:数学教師 シリーズもの)

何でそうなったのかハッキリとしたキッカケは思い出せないものの、自分の両親をバカにされた、それだけは妙にハッキリ覚えていて。いや別に父親のことはどう言われようとぶっちゃけどうでもいいのだが(そもそもあんまり家にいねぇし)母親のことについてとやかく言われるのだけは我慢が出来なかった。怒りが瞬間的にカッと沸いてきたこと、俺の両親を笑った同級生に殴りかかっていたこと、お互い殴り殴られの大喧嘩になったこと、は鮮明に覚えてる。その後の顛末や同級生との関係はどうなったのか、その辺についてはすっかり脱落している。
とにかく小学校高学年から中学卒業までの俺は血気盛んで、よく母親(と父親)に迷惑をかけていた。小さい頃の交通事故で出来た顔の傷のせいで目をつけられるわ怖がられるわで、揶揄われることや絡まれることも少なくなかった。
そんな中迎えた思春期、元々の目つきの悪さもあり、出処が分からない噂を聞きつけガラの悪い他校の連中に待ち伏せされたりすることもあった。勝敗数は定かではないが、怪我をして病院にお世話になった回数は片手では収まらないだろう。こんなヤンチャな俺が今や学校の先生だなんて、当時同じ学校に通ってた奴らは信じねぇだろうなァ。
まあ、俺の中学ん時の姿と今の姿、どっちも知ってる奴がいるんだけど。実は、この学校に。

---

「さねみんじゃあねー」

「先生、また明日」

パタパタと廊下を小走りで走る女子学生達に、「気をつけて帰れよォ」と声をかける。下校時刻、部活に行く生徒、帰る生徒、残る生徒に立ち話をする生徒と様々だ。
教科書と出席簿、チョークが入ってる箱、筆箱、その他諸々を肩に担いで職員室へ向かう。
すれ違う他学年の先生方にお疲れ様ですと挨拶を交わし、自分の席に着く。
ふーっと一息ついて、ノートパソコンのロックを外し、業務日報を書こうと文書アプリを立ち上げた。さて何を書こうかと椅子にもたれた時、俺の隣の席に座る先生が帰ってきた。

「お疲れェ」

「お疲れ様です」

先生は資料やら教科書やらを乱暴に机の上に置くと、さっさと席を離れてしまった。きっとそのまま着替えて部活の監督に行くのだろう。女子バスケット部顧問で、担当科目は中学高校の国語で、俺と中学ん時の同級生で、現在ちょっと訳ありの関係で。
訳ありっつーのは、付き合ってないけど身体の関係はある、所謂なんとかフレンドってやつだ。そんな爛れた関係になってからもう1年くらい経つのか?
週末、タイミングが合えば一緒に飲みに行って、そっから交合って、日曜日には解散して、という流れもお約束になってきてるし、週明けの月曜日には何もなかったかのようにおはようの挨拶を交わすのも慣れっこだ。学校では全然会話も交わさないため、俺達の関係を知ってる人なんていないだろう。多分。匡近にも喋ってねェし。

「あ、」

匡近で思い出した。そう言えば図書館の書庫整理だかなんだかとかで、アイツが受け持ってる部活の監督を頼まれてたこと、すっかり忘れてた。室内の部活なのでパソコンを持って行っても問題ないだろう。繋がっていた電源コードを抜き、パソコンを閉じる。業務日報のついでに明日の授業範囲を確認しておこうと、数Bの教科書と中学3年の教科書、関連する参考書やワークをパソコンの上に置き、まとめて小脇に抱える。時刻は15時半。俺の時間は、これからだ。

---

「あ、不死川先生」

「先生、こんにちは」

家庭科室。
滅多に来る機会がないそこの教室の扉を開けると、男女が隣合って座っていた。

「よォ、素山夫婦。元気かァ」

手を挙げて挨拶する。男子生徒が立ち上がり、俺に近付く。

「不死川先生、こんちには。そう言えば今日、粂野先生の代わりに不死川先生が監督してくださるんでしたっけ」

「おー。と言っても俺は手芸に関してはからっきしだからなァ、分かんねェことがあれば匡近に聞いてくれェ」

そう言うと、女子生徒が鈴を転がしたような声で笑った。

「不死川先生、粂野先生ったらおかしいんですよ。クロスステッチのこと、クロツケッチって言い間違えていて」

クロツケッチってなんだよ。思わず吹き出す。

「今素山が手に持ってるやつかァ?」

言った後に、あ、と思った。この二人、どっちも素山だった。だが、女子生徒が「そうです」と返事してくれた。

「狛治さんが作っているのはレース編みのコースターです」

「へぇ」

男子生徒に、それから、机の上に置かれている作品に目をやる。いかにも男子、みたいなゴツめの手のひらから、あんな繊細な幾何学模様を生み出せるのかと感心した。

素山狛治と素山恋雪。
学生同士で結婚してる、なんとも稀有な存在だ。なんでも実家が隣という縁から仲を深め、素山恋雪が結婚出来る年齢になったのを見計らって正式に籍を入れたんだとか。
二人の左薬指にはいつもシンプルな結婚指輪が光っている。

「他の生徒も来るんだろ?俺のことは気にせずいつものようにやってくれェ」

「分かりました」

素山狛治が座っていた席へと戻る。俺は二人が座っている席から少し離れたところに座り、荷物を置いてパソコンを開いた。

それからしばらくして、手芸部の生徒がぽつぽつと現れた。俺があれこれ言わなくても生徒達は棚から道具を出し、談笑しながら、時に休憩を挟みながら作業を進めていく。手がかからなくてありがてぇ限りだわァ。
業務日報をさくっと書き上げ、授業の予習に入る。ここまで進みそうだな、と言うところまで教科書の中身を確認をし、授業内で取り上げる問題の解き方の確認をし、宿題の量を確認し終わる頃には日がすっかり落ちていた。手芸部の生徒も大半が帰宅していて、素山夫婦と2人の生徒が残っているだけだった。荷物をまとめながら、尋ねる。

「お前ら、まだ帰んねェの?」

時計は18時を回ったところだった。素山狛治が口を開く。

「手芸部の活動時間が18時30分まで許可されているので、俺達はそこまで残ります」

「来月あそこの公園で開催される、バザーに出品するものを作っているんですよ」

女子生徒の一人が続いて発言する。そう言えばそんな行事あったなァ。俺はここら辺の住人じゃねェから細かいことは分からないけれど、飯屋も出るのでうちの生徒がよく遊びに行ってるのは知っているし、地域貢献と防犯のため先生方が見回りに出向くのも知っている。俺は去年見回り担当だったから、今年はその役目が回ってくることはないだろう。
飯屋の屋台の他、女子生徒が話したバザーも結構な規模で、ハンドメイド作家も数名参加していたような気がする。実家に何か買っていくのも悪くはないだろう。アルコールの提供もあったから、一杯引っ掛けていくのもいいかもしれない。
……そう言えばアイツの今週末の予定を聞いていなかったか。携帯電話をポケットから出そうとした時、素山恋雪に声をかけられた。

「不死川先生は、どの柄がいいですか?」

「あ?」

素山恋雪が手招きして俺を呼ぶ。近くに行くと、机上に2枚のランチマットが敷かれていた。柔らかな色合いの北欧風のパターン柄と、白黒の幾何学模様のランチマット。何を選ぶにせよ家族が基準になってしまうのは、俺の癖みたいなもので。

「こっちの方が可愛いんじゃね」

北欧風のランチマットを指さす。素山恋雪はニコッと笑いながら、ですよねと漏らした。
すると、素山狛治が目を丸くしながら俺を見つめる。

「……不死川先生、てっきり、逆の柄を選ぶのかと思いました」

「なんでだよ。こっちの柄のが可愛いだろうが」

「いや、可愛いって」

「あァ?……」

言われてから気付いた。他の生徒もニヤニヤと笑っている。可愛いって言っちゃダメかよ、と思ったが、流石にこの強面の筋肉質な男に不釣り合いの単語か。
照れくさいのを誤魔化すように、頭を掻く。

「……いいじゃねェかよ、可愛いって言ったって」

素山恋雪と、もう一人の女子生徒が声を上げて笑う。なんだか益々恥ずかしくなって、キレ気味に「あーもう、うるせぇな!」と一喝した。

「お前ら、もう18時過ぎてるからとっとと帰れ!」

「不死川先生、かわいーっ」

「可愛くなんかねェ!」

「狛治さん、今日は帰りましょうか。作業の区切りもいいし」

「そうですね」

生徒達が片付け始めたのを見て、俺も撤収の準備をする。素山恋雪の機転のきかせ方にこっそり感謝した。揶揄われるのは慣れてないので、あの空気が続いてたら地獄だっただろう。
教室の戸締りと消灯を確認し、素山狛治から家庭科室の鍵を受け取る。部員達が仲良く玄関に向かう後ろ姿が小さくなるまで見送って、一つ息を吐いた。

「(さてと……)」

職員室に戻ろうと歩を進めて、ふとアイツのことを思い出した。携帯電話を取り出しメッセージアプリを立ち上げたところで、ふと、体育館に行けばアイツがいるんじゃないかと考える。一本連絡すれば済む話なのだが、純粋に女子バスケ部や、体育館で汗を流している部活動がどんな練習をしているのか気になったのだ。観に行く機会もそうそうねぇし。
それに、うちの体育館は2階から体育館を見下ろせる作りになっているので、俺が現れることで部活動の妨げにはならないだろう。踵を返し、体育館の観覧席へと向かうことにした。
人気のない廊下を歩いて行き、スタンドへ続く扉を開ける。換気されていないだろう、こもった空気がぶわっと広がった。

「(……へえ、こんな感じになってんのかァ)」

年間行事でしか訪れないような、縁のない空間。観覧席には誰もおらず、青色のベンチがいくつも並んでいた。きっと、練習試合の時には自校の生徒や他校の生徒、親御さん達がここに集まるのだろう。
落下防止の柵からコート内を覗き込む。そこには女子バスケ部の姿も、他の体育会系の部活の姿もなかった。
ただ、一人、コートを駆ける後ろ姿だけがあった。居残り練習をしている生徒だろうか?バスケットボールを上手く操り、縦横無尽にコート内を駆け回り、まるで見えない相手と1on1をしているようだ。靴底とコートが擦れる鋭い音が体育館中に響いている。

「(すげーな)」

身体を低くしてのドリブル、素早いピボットターン、しなやかなシュート。
ボールはゴールポストに当たり、そのまま入るのかと思ったらリングに嫌われてしまい、ボールが弾かれてしまう。
空中を泳ぐボールに、懸命に手を伸ばす横顔──。

「あ、」

無意識に声が出ていた。
俺、この光景、どこかで見たことある。
突如現れた既視感に、心臓が早まる。どこだ?どこで見た?
夢じゃない。
知っている。
俺は、この光景を──。

「……不死川先生?」

どこからか呼ばれて、ハッとする。下から俺を呼んだのは、この学校の生徒──ではなく、女子バスケット部顧問で、担当科目は中学高校の国語で、俺と中学ん時の同級生で、現在ちょっと訳ありの関係の──先生だった。

「どうしたんですか、そんなところで」

先生はバスケットボールを腕に抱えながら言葉を続けた。

「あ、いや……」

俺の声は先生には届かなかったらしい。え、何ですか?と聞き返され、ここが体育館で、俺達の距離が思ったよりも遠いことを改めて気付かされた。
キョトンとしている先生に、改めて少し大きめの声量で話しかける。

「……部活、終わったのかよォ?」

「あ、はい。ついさっき。もしかして不死川先生、当直ですか?」

「いや、違ェ。今日は当直じゃなくて、ただ……」

「ただ?」

なんだかさっきから口の中に鉄の味を感じる。ほろ苦くて、痛くて、切なくて……。
胸の底から湧いてくる不快感。思い出せないもどかしさと、もう少しで思い出せそうな喉のつまり。
次の言葉を言いあぐねていると、そう言えばと下から先生が言葉を投げかけてきた。

「不死川先生、中学の時にもふらっと体育館に来たことありましたよね」

「……え?」

「残ってリバウンドの練習してた時、気が付いたら体育館の扉の近くにいて、じっと立ってたんですよ。実弥ちゃん!?ってびっくりして──」

それを聞いて、身体中に電撃のような衝撃が走る。

そうだ、あの日、同級生と殴り合いの喧嘩になった時。これ以上家に迷惑をかけまいと、ほとぼりが冷めるまで何処かに身を隠そうと思ったんだった。殴られた衝撃で口の中が切れて、ずっと血の味が広がっていて不愉快で、水道がある所を求めてウロウロしていたら、いつの間にか体育館にたどり着いていて。
そう言えば体育館の中に水飲み場があったなと、重い扉を開けた向こうで

コイツが高く、高く跳んでいるのを見た。

結局、親に連絡が行って、校内放送で呼び出しされて、校長室で取り調べを受けて。
どうして殴ったの?と言うくだらない質問に答えるよりも、俺は、もう一度コイツがボールに手を伸ばして跳ぶ姿を見たかった。
もしかしたらその時に一目惚れをしていたのかもしれない。
どうして今まで忘れていたんだろう。
それはきっと、あの時の苦い記憶と一緒に封印したからで。

「お前さ、」

「はい」

「もう一回今のやってくんねェ?」

「……なんで?」

疑問を「いいからいいから」と適当に流す。先生はよく分かっていない様子ながら持っていたボールを再び操り始めた。
ドリブル、ターン、シュート、そしてリバウンド。
地面を蹴って、高く、高く跳ぶ。
思い切り手を伸ばして、真っ直ぐな瞳が揺らめいて。


その眼差しに射抜かれる


「サンキュ」

「……そのお礼、よく分かんないけど」

「だよな、俺もよく分かんねェ」

「変なの」
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迷子のロジカルシンキング(キ学:数学教師 シリーズもの)

なんか、変だった。

いつものように待ち合わせして、いつものように空いてる居酒屋に入って
ここまではいつも通りだったのに
携帯に入った一本の通知を見てから、どうも様子がおかしい。
実弥ちゃん──中学の時の同級生で、今現在同僚として働いてる──は、落ち着かない様子で時計を見たり、メッセージを返している。
どうしたの?と尋ねると、なんでもねェと素っ気ない返事(これはいつものこと)
でも、あまりにもいつもと違う様子が気になりすぎて、わたしの方から切り出した。

「急ぎの用事とかなら、今日はお開きにしようか?」

わたしの一言に実弥ちゃんは一瞬、大きな目をパチクリさせたけど
お開きにしなくて大丈夫だ、と言い
そのまま喉を鳴らすいい飲みっぷりでグラスを空けた。

「……?」

実弥ちゃんの様子がおかしいまま、2人だけの飲み会は続き
いつもの終電、発車2分前に駆け込んで、そのまま彼の家へ。
で、いつものように、どろどろと交合う……はずだったのに、なんだか実弥ちゃん、上の空。
いや、気持ちいいのは気持ちいいんだけど、なんだか切羽詰まってると言うか、鬼気迫ると言うか、いつにも増して真剣と言うか、別人と言うかなんと言うか。
とにかくいつもより、変だった。

行為が終わって、荒れた呼吸を整える。
隣で実弥ちゃんが携帯を見ているらしく、暗がりの部屋にぼんやりと白い光が滲んでいる。
やっぱりおかしい、居酒屋で、携帯の通知を見てから様子が変だ。
何かあったのだろうか。
もう一回聞こうとして、口を開こうとした瞬間。
画面の光に照らされている、実弥ちゃんの顔が
なんとなく、ホッとしたような、安心したような顔つきに見えたから。
なんだか声をかけにくくて。

「……ん、どしたァ」

そんなわたしの視線に気が付いたのか、実弥ちゃんは携帯をヘッドボードに置いて
そのままベッドにどさりと横になった。

「……なんでもない」

実弥ちゃんに背を向けて、あ、これ、拗ねてるみたいと恥ずかしくなる。
そんなわたしの心を知ってか知らずか、実弥ちゃんの逞しい腕が柔らかくわたしを包んだ。
それから首筋に鼻先の体温を感じて、くすぐったさに身体をよじる。
わたしの首筋に顔を埋めるのが好きらしいと知ったのは、つい最近だ。

「寝づらくないの?」

わたしの問いに、別にィと簡潔な返事。
簡潔なんだけど、なんだか余裕があって、さっきと違う雰囲気。
聞きたいけど、水を差すような気がして
そのまま眠りに落ちてしまった。

***

部活があるからと朝方、俺の家を出るアイツを見送った後、やってしまったと後悔した。
俺ら別に付き合ってる訳じゃなくて、ただの都合のいい関係で、だからこそ、だ。

今回、割と雑になっちまった。いや、雑になる理由はあって、ただ、それをアイツに言うと「あ、じゃあわたし帰るね」って俺の返事も待たずに言われるのが目に見えていたから、それだけは避けたくて。

今でこそ週1から2週間に1回のペースでヤることヤってるものの、どっちかが忙しかったり、お互いの都合が合わなければ出来ないわけで。つーか1ヶ月以上出来ないとか、割とよくある。
し、彼氏彼女でもなんでもねぇから、捨てられる可能性だってあるわけで(俺から関係を切るってのは今のところないが)
いつでも満足させてやりたいと思っていたのに。

「やり直してェ……」

独りごちる。それから長く息を吐いて、顔を上げた。うだうだしてたって仕方ねェ。次だ次。
寝室に戻り、ケータイを開く。メッセージアプリを立ち上げ、上の方に表示されている男の名前をタップするとそいつとのトーク画面が表示された。
全部テメェのせいだぞ、宇髄。

---

同じ学校で働く美術教師の宇髄からメッセージが飛んできたのは、アイツと飲んでいる最中のことだった。
なんだかんだで腐れ縁(同じ大学だった)な俺達、宇髄から連絡が飛んでくるのは珍しくはないのだが。
その内容が、たった一文。

【今から煉󠄁獄と一緒にお前ん家行くからド派手に待ってろよ!】

目を疑った。そりゃそうだろ。
今から?煉󠄁獄と?何しに?
今日は金曜日、宇髄と煉󠄁獄(こいつも同じ学校で働く教師だ)だって飲んでいる可能性はあるとして、なんでいきなり俺ん家に来るって展開になってんだ?全くもって意味が分からねェ。

【今家にいねーし】

急いで返信したのは宇髄と煉󠄁獄ほど行動力に満ち溢れた奴を知らないからだ。なんだったら今既に俺ん家の前にいる可能性だってある。
コイツとの時間は頻繁にあるわけじゃねェんだし、こっちを優先したいんだよ、俺は。

じゃあ、宇髄になんて言う?

断るのは簡単だ。ただ、断ったところで簡単に引き下がる男でもないだろう。しかも宇髄は変に勘がいいので、「女か!?」なんてしつこく聞かれそうだ。それはそれで面倒くせぇし、コイツとの関係がバレたら厄介だ。
ややあって、宇髄から返事が返ってきた。

【お前も飲んでるの!?おもしれーじゃん、今から合流しようぜ】

ふざけんな!心の中で叫ぶ。合流なんかするわけねェだろうが。
目の前にいる女が、不思議そうに俺の顔を覗き込む。どうしたの?と聞かれたので、なんでもねェと答えておいた。

【今取り込み中だから連絡してくんな、そして俺の家にも来るんじゃねー】

手早く返信する。水を差された気がして、イライラしてきた。誤魔化すようにビールを流し込み、砂肝の串を乱暴に口に運ぶ。

「んで……何話してた……あーそうそう、伊黒な、」

女に話しかける。が、女は俺の問いに答えず、「急ぎの用事とかなら、今日はお開きにしようか?」と、心配そうな顔つきで言ってきた。
クソ。宇髄の野郎、月曜日覚えてろよ。
お開きにしなくて大丈夫だ、とは言いつつも、宇髄と煉󠄁獄のことが気になる。酒も入っているせいか、何を話しても聞いても気もそぞろ。

結局、コイツと飲んでる間に宇髄から連絡は来ず。まぁ俺が連絡してくんなと言ったからかもしれねぇが、まさかヤってる最中に家のチャイムが鳴ったりしねぇよな、いきなり押しかけてきたらどうしよう、なんて追い返そうか、つーか宇髄と煉󠄁獄は今どこにいるんだ、絶対来るなよと念押ししておけばよかった、とかあれこれ考えていたら、いつの間にか終わってた。マジで。

「……」

「……?」

衝撃だった。適当にやってるつもりは無かったのに、最中の記憶がすっぽりと抜け落ちてる。と言うか、居酒屋を出たところからの記憶がない。自分家にいるっつーことは終電で帰って来ているはずで、でも電車に乗った覚えがない。
どうやって帰って来たか、どんな話をしていたか思い出そうとしていると、組み敷いている女が訝しげに俺の名前を呼んできたのでハッとした。なんでこんなに余裕ねぇんだ、ダサすぎだろ、俺。
出し切って萎んだモノを抜く。適当に処理してゴミ箱に捨てた後、女の顔を垣間見た。前髪が汗で張り付いていたので、指先で払ってやる。

「ん……」

色めかしい吐息が漏れる。目を閉じて余韻に浸っているようだったので、急いで携帯を開く。
メッセージが来ている通知が画面上に表示されたが、送り主は宇髄ではなく煉󠄁獄だった。しかも複数送信しているらしい。
通知をタップして詳細を確認する。

【すまない!宇髄が俺と一緒に君の家に行くと言った内容のメッセージを送っていたみたいだが、その本人が酔い潰れてしまって今タクシーで帰らせた】

【君の家に行くだの、合流しようだの、君の都合も考えず宇髄が勝手に連絡してしまって申し訳ない】

【だる絡みするなと俺からも言っておくので、許してやってくれ。ではまた月曜日!】

最後に、おつかれさま!とよく分からないキャラクターのスタンプが添えられていた。
それを見た途端、安堵の気持ちがどっと溢れた。あー、良かった。
再び女に目をやると、上目遣いでこっちを見ていた。その目線に射抜かれた瞬間、なんだか気が抜けて、酔いもすっかり覚めて、急にコイツに甘えたくなった。
用が無くなった携帯をヘッドボードに置いて、女の身体を抱き寄せる。首筋に顔を寄せると、俺が使ってる洗髪剤の匂いがした。
多幸感に包まれて、目を閉じる。
コイツの気持ちを、置き去りにしたまま。

***

結局あの後、お互いの折り合いが合わなかったのもあって
次の飲み会が設定出来たのは、あの日から数週間後だった。
本当は「何があったの?」と聞きたかったのだけど
それを聞いてしまったら「面倒臭い女だな」と思われてしまいそうで、今の今まで聞けずじまい。

もしかして、好きな人が出来たのかも。
だからあんなにソワソワしてたのかも。
だったらこの関係も終わりなわけで。
それはそれで寂しいけれど、仕方ない。
仕方ない、けど

二次会を終えて、終電が近くなった頃。
店を出て駅に向かおうとした矢先、実弥ちゃんに耳打ちされた。

「なぁ、ホテル行かねェ?」

それは急な申し出だった。
だって、わたし達がホテルにお世話になるのは、終電を逃した時くらいで。

「えっ、な、なんで?」

「いいだろ別にィ。お前、明日の予定は?」

「え……と、確か午後練だから」

「じゃあ大丈夫だよな?」

「え、いや、別に、いいけど……」

わたしの反応を見て、実弥ちゃんが意地悪く笑う。いや誰でも動揺するでしょ、だっていつもと違う展開なんだもん。なんでいきなりそんな提案。
そんなわたしの胸中を見透かしているのかいないのか、追い打ちをかけるように実弥ちゃんが言葉を続けた。

「覚悟しろよォ」

あ、これ、ドロドロにさせられるやつだ。腰砕けになるやつ。
なんで?なにが引き金になったの?
今日の飲み会を思い出す。話の内容は学校のことばかりで、一体どの話題がスイッチになったのか、皆目見当もつかない。
どうして?どれ?なに?
そんなことばっかりぐるぐる考えていると、手を握られた。
それから二人、ネオン街の奥底に導かれるように歩き出す。
握られた手のひらはほんのり暖かくて、そういえば往来の場で手なんか握ったことなんかなくて、アルコールが回った頭が混乱する。なんでこんな展開になってるんだろう?
何も分からないまま、せめて知り合いが見ていませんようにと顔を伏せながら祈った。

---

やっぱり気になって、聞いてみることにした。

「ねぇ」

「あ?」

水を飲んでいる実弥ちゃんに声をかける。

「この間やった時さ」

「おう」

「なんか適当だったよね」

ぐふっ。
実弥ちゃんからくぐもった音。
げほごほとむせながら、わたしを見やる。

「おま、っ、気付いてたのかよ!?」

「気付いてたっていうか、なんかいつもと違うなーって思って」

彼女、出来たの?
すらっと言えたのは、お酒のせいだろう。
聞く気はなかったのに聞いてしまったのも、きっとお酒のせい。
実弥ちゃんは口の端に漏れた水を手の甲で拭いながら「違ぇよ」と言葉を続ける。

「じゃあなんであんな、心ここに在らずだったの?」

「いや……」

「?」

言葉を選んでいる実弥ちゃんに、やっぱり女だと冗談っぽく言うと、だから違ぇってとため息混じりに返ってくる。

「……あの日、宇髄の野郎が」

「宇髄先生?」

予想していなかった名前の登場に、思わず聞き返す。

「おー。宇髄と煉󠄁獄がその日一緒に飲んでたっぽくて、一緒に飲まねぇかって連絡が来てよォ」

「え、そうなの。一緒に飲みたかったな」

「やめとけ。宇髄の奴、俺らが中学の同級生だって知ったら明け透けに質問してくるぜ」

「あ、そっか」

そう言えば、わたし達が中学の同級生だって知ってる先生って
もしかしたらあまりいないかもしれない。
(言い散らすことでもないし)

「それに」

「それに?」

実弥ちゃんは飲んでいたペットボトルをスイッチだらけのヘッドボードに置いて
それからわたしににじり寄って来る。

「お前との時間を邪魔されたくねぇんだよ」

え。
喉から声が生まれる前に、唇が重なった。
甘く触れたと思ったら、噛み付くような口付けに変わる。
そのままベッドに押し倒されたので、抗議した。

「えっ、ちょっと待って!もう一回するの!?」

わたしの言葉に、当たり前だろォ、としれっと言いのける実弥ちゃん。

「この間のリベンジだァ」

「なにそれ、っ」

薄い唇が、わたしの肌をゆるゆると滑っていく。
身体が跳ねて、熱が湧き出る。
実弥ちゃんの頭を掴んで、押しのけようとした。
のに、ぐいぐいと攻めてくる。

「リベンジなんてしなくていい!」

「俺の気が済まねェ」

「えっ、や、ちょっと待って!?」


迷子のロジカルシンキング


(……いつもよりすごかった。頭ボーッとする)

(もう絶対、クソだせぇことなんかしねぇぞ)
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キミが悪いよ悪いけど(キ学:数学教師 シリーズもの)

どことどこが繋がってるか、なんて
解いてみないと分からないものだったりする。


「まいどー」

元気よく出迎えてくれた人。八百屋さんや魚屋さんの類ではなく。
この学園の、司書の先生だ。

「粂野先生、こんにちは」

「あ!いらっしゃい」

粂野先生──とても明るい、左頬に二本の傷がある男の先生──に元気よく挨拶され、軽く会釈をする。

「今日も国語の史料探しですか?」

「はい、昔の中国の風景が載っている雑誌とか、史料とか、この図書館にありますか?」

粂野先生はわたしの質問に対し、机上にあるタブレットを操作していく。ややあって、「それっぽいのなら、多分」と、本棚の位置を教えてくれた。
ありがとうございますと一礼し、教えてもらった本棚に向かう。

私立の学校ということもあり、資料(と史料)や蔵書が充実している学校の図書館。もしかしたら市が運営している図書館よりも蔵書数が多いかもしれない。
放課後と言うこともあり、この空間には生徒の姿がちらほら見受けられる。
真面目に勉強している生徒もいれば、待ち合わせなのか音楽を聴いている生徒、参考書を開きながら船を漕いでいる生徒と様々だ。
自分の背の高さ以上ある本棚を見上げる。異文化の香り。確かに、探していたものはここにありそうだ。
華やかな背表紙をなぞりながらお目当ての本を探していると、粂野先生の声が聞こえた。

「あっ、実弥」

その、覚えのある名前に図らずも身体が反応する。本棚の陰から声のした方を覗き見ると、これまた覚えのある後ろ姿。でしょうね、と、心の中でツッコミを入れた。実弥なんて名前、この学校に彼しかいない。
そんな馴染みある彼の姿を確認したところで、再び探し物に戻る。求めていた写真が載っている本を何冊か手に取り、貸出カウンターに向かった。

「おかえりなさいませー。お目当ての本はありましたか?」

実弥ちゃん、じゃなくて、不死川先生と仲良く話していた粂野先生がこちらを向く。

「はい、ありがとうございます。これ、お借りしても大丈夫ですか?」

「もちろん。あ、でも、持ち出し禁止なんで、早めに戻していただけると」

「あ、じゃあ今日中に」

「りょーかいです」

と、わたしと粂野先生の間を不死川先生が割って入ってきた。

「……なんだそれ、読むのかよォ?」

「そんな訳ないじゃん。授業で使うの」

「へえ」

「不死川先生はなんでここにいるんですか?」

「あ?匡近に貸したゲーム、どこまで進んだのかと思ってよォ。進捗確認に来た」

「ふーん」

この二人、ゲームを貸し借りする仲なのだろうか?不死川先生の口から粂野先生の話題なんて一言も出たことがないので、驚き。

「で?どうなんだよ、匡近」

「……」

話を振られた粂野先生は、わたしと不死川先生の顔を交互に見て、分かりやすく疑問符を頭に浮かべた。

「……二人って、結構仲良し?」

一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。
誰が誰と仲良し?わたしと、不死川先生のこと、だよね?
なんとなく答えあぐねていると、不死川先生が口を開いた。

「中学ん時の同級生だァ」

それから言ってなかったっけか、と、粂野先生に追加で言ってのける。
確かに、わたしと不死川先生は中学の時の同級生だけど、二人の間には今それ以外の関係でも繋がっていたりして。
……そんなこと、口が裂けても言えない。(しかもここ学校だし)
粂野先生は「聞いてないよ」と口をとがらせた。

「あ、じゃあ俺の知らない実弥も知ってるって訳だ」

「テメェが知らねぇ俺なんていねぇだろーが」

「そんなの分かんないじゃーん」

すると、何か妙案を思いついたのか、粂野先生の顔がパッと明るくなる。

「あ!いいこと思いついた!今日金曜日だし、飲みに行きませんか?こいつ抜きで」

「へっ!?」

予想外の展開に、思わず変な声が出た。
慌てて口元を掌で覆い、すみませんと謝罪する。

「え、あ、不死川先生は?」

わたしの一言に「ダメダメ」と首を振る粂野先生。

「実弥のあんな話やこんな話を聞きたいのに、本人がいたら確実に怒られちゃうじゃないですかぁ」

「……俺は今既にキレそうだけどなァ」

「実弥が高校の時にやらかした衝撃の話を教えますからっ」

「え、」

ホントですか、それ気になります。
口にする前に、不死川先生が図書館中に響く割と大きな声で「匡近ァ!」と粂野先生の下の名前を呼んだ。
一斉に視線が集まり、ばつが悪くなる。
一方当の大声を出した人と大声を出された人は、そんな視線気にも留めていない。
殺気立ってる視線の先には、ヘラりと笑う粂野先生。

「えーと……」

今日は週末で、いつもなら隣にいる不死川先生と飲みに行く日、なのだけど。毎度毎度彼とちゃんとした約束をしている訳ではないし、なんなら今日だって約束があるわけではない。ただ、もしかしたら不死川先生は今日、わたしと飲みに行くつもりでいたかもしれないし、そのために予定を空けていたかもしれない。

どうしよう、どうすべきか。とりあえず一旦保留にした方が、と考えたところで、不死川先生が分かりやすく舌打ちをした。

「俺の話は絶対すんなよなァ」

「それはどうかな」

ニヤニヤしながら煽る粂野先生に、不死川先生が青筋を立てて笑う。

「匡近、テメェなァ、いい加減にしねぇと……」

「あっ!お客様、ここは図書館なので大声は禁止です」

「誰のせいだァ!」

粂野先生に掴みかかろうとする不死川先生。そんな彼を軽くいなしながら、粂野先生はスマホを取り出し「そんな訳で連絡先交換しましょう!後で連絡しますから」と、QRコードを差し出す。
そんなドタバタの中で交換した連絡先から、「今日はここにしましょう!」とお店のURLが送られてきたのは、その数十分後だった。

***

……なんてやり取りの後に行われた二人飲み、まさかこんな状況になろうとは。
目の前にはうつ伏せですやすや寝てる粂野先生と空になったグラス。粂野先生が起きるのを待っているわたし。
まだ一次会なのに、と思ったけど、いつもお酒が強い人と飲んでいることを失念していた。
無理させてしまったかなと反省、無理矢理起こすのもしのびないので、かれこれ数十分はこのままの状態、なのだけど。

「すみません、お席の時間なのでご退席お願いします」

時間が来たことを伝えに来た店員さんが、粂野先生の姿を見て吃驚する。

「あの、お連れ様……大丈夫ですか?」

「あ!はい、すみません、今起こします」

慌てて粂野先生の肩を揺すり、名前を呼ぶ。顔を上げた粂野先生の表情は寝起きのそれだ。

「んぁ……」

「粂野先生、すみません。時間みたいで。立てます?歩けます?」

粂野先生は大きく欠伸をして、「大丈夫ー」と力のない返事で応える。こんな状態じゃ財布を取り出してもらうのは無理だなと、とりあえずここはわたしが払うことにした。
伝票を持ってレジに向かい、会計を済ます。席に戻ると粂野先生はまた突っ伏して寝ていた。

「ちょっと、粂野先生!」

再び呼び起こす。こんな状態で家に帰れるのだろうか?店出ますよと伝えると、またまたふにゃけた返事。
覚束無い足取りで壁を伝って歩いてきた粂野先生はお店から出た瞬間「いやあ飲んだねぇ」と上機嫌な笑顔をわたしに向けた。
楽しそうでなによりです。

「粂野先生、お家、どっち方面ですか?」

「んー、あっち」

倒れそうになる粂野先生をなんとか支える。あ、これダメだ。一人で帰らせてはいけないやつ。道端で寝こけて朝まで起きないやつ。最悪の状況を想像して、血の気が引いた。
そこら辺にいたタクシーを捕まえて、強引に押し込む。
詰めてくれない粂野先生を力ずくで押しのけ、わたしもタクシーに乗り込んだ。

「粂野先生、タクシーで送りますから、家の住所教えてもらってもいいですか?」

再び眠りにつきそうな粂野先生に、懸命に話しかける。
すると粂野先生は出し抜けに懐から携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけ始めた。

「……あー、うん、俺俺ー。……え?酔ってない酔ってない。んふふ。そんな訳でぇ、今からタクって帰るから!よろしくー」

呂律の回らない状態のまま電話を切り、そのままの勢いでタクシーの運転手さんに住所を告げる。とりあえず、一安心。
運転手さんに「お客さんの行先も一緒でいいですか?」と尋ねられたので、頷く。カードの余裕はまだあったはずだ。
タクシーが動き出すと同時に、どっと疲れが襲ってきた。普段こんな風に誰かを介抱することなんてないから、気疲れしたと言うか。
隣ではすやすや眠ってる粂野先生。よく眠っていらっしゃる。

窓の外を流れていく光を、ぼんやりと見つめる。そう言えばタクシーを使うのなんて、いつぶりだろう。
いつも実弥ちゃんと飲んだ日はそのままホテルに転がり込むか、終電に駆け込むかのどちらかなので、そういう点では今この状況が新鮮だったり、する。
実弥ちゃん、今何してるのかな。回らない頭で、彼のことを思った。

***

「お客さん、着きましたけど、ここら辺で大丈夫ですか?」

そう、タクシーの運転手さんに言われたけれど、自分が今どこにいるのか、ここがどこなのか、さっぱり分からない。
あたふたしていると、連れの野郎に聞いた方がいいんじゃないですか?と言葉が続いた。

「あっはい、すいません」

タクシーの運転手さんは、うんざりした顔でこちらを見つめている。
そりゃそうだよね、こんな面倒臭い状況に居あわせるのなんて嫌だ。
粂野先生が吐いてないだけまだマシか。

「粂野先生、着いたんですけど、ここで合ってますか?」

身体を結構な力で揺さぶる。が、起きる気配は無い。
え、どうしよう。って言うかこれ、どうすればいいんだろ。
粂野先生!大声を出してみるけれど、未だ反応なし。寝息は聞こえるから生きてはいるんだろうけど。
どうしよう。すっかり困り果てた、その時だった。
タクシーの窓が数回ノックされる。驚いて振り返ると、そこに立っていたのは実弥ちゃんだった。

「実弥ちゃん!?」

タクシーの運転手さんが「知り合いですか?」と尋ねてくる。その質問には答えず、「すいません開けてください!」とお願いした。
扉が開く。そこにいる男の人が間違いなく実弥ちゃんだったので、よかったと無意識に呟いていた。
手を差し伸べられたので、掴む。立ち上がって、実弥ちゃんの身長って粂野先生よりちょっと大きいんだなと場違いなことを考えた。

「匡近から電話があって、もうそろ着くかと思って迎えに来た」

「そうなんだ……」

「まさかお前がいるとは思わなかったけどなァ」

「……こんな状態で、一人になんかさせられないよ……」

タクシーの中を覗き見、状況を把握して大きなため息をつく実弥ちゃん。
粂野先生のカバンから財布を取り出して、タクシーの運転手さんに謝りながら乗車料金を払う。
それから粂野先生をタクシーから無理矢理引きずり下ろして、粂野先生に肩を貸してあげた。

「コイツのカバンと上着持てるかァ?」

「あっうん、任せて」

引き摺るように粂野先生を運ぶ実弥ちゃん。辺りを見渡して、そう言えばここ、見覚えある場所だなと改めて思った。タクシーの窓越しじゃ分からないものなんだなあ。
実弥ちゃんの家までは、数分もかからなかった。玄関で器用に粂野先生の靴を脱がすと、そのまま粂野先生をソファーに言葉通り放り投げる。驚くことに、乱暴な扱いを受けてもなお、粂野先生は安らかに眠っていた(意味違うけど)

「悪ィ、匡近が迷惑かけて」

「あっ、いや、わたしも粂野先生に無理させちゃったかなって」

実弥ちゃんは頭を乱暴に掻きながら「酒弱ェくせにアホほど飲みやがるんだ、こいつ」と、この状況に慣れてるような口振りで話した。

「そうなんだ」

「会計もお前が立て替えてくれたんだろ?いくらかかった?」

言いながら実弥ちゃんは粂野先生の財布からお札を何枚か取り出す。 わたしが出した会計額よりも多かったので、慌てて突っ返した。

「いいから、貰っとけ」

「いやでも、このお金、実弥ちゃんのじゃないでしょ」

「迷惑料込みだァ。匡近には俺からキツく言っとくから」

「……でも、」

躊躇っていると、手のひらにお金を捩じ込まれた。そこまでされて断るのも失礼だなと思い、懐に仕舞う。

「……」

「……」

微妙な空気が流れた。
いかん、そんな空気に反応してないでお暇しなきゃと、別れの挨拶を早口で言って踵を返す。
すると、後ろから手首を掴まれた。

「おい待て、失礼すんじゃねェ」

「いやっだって!帰らなきゃ!」

「帰らなきゃって、どうやって帰るんだよ」

言われて思った。確かに。
今ここから急いで駅に向かったとして、終電には間に合わなさそうな時間帯だ。それに今日は金曜日だし、タクシーも捕まらなさそうな雰囲気。

「泊まってけばいいだろォ」

しれっと、なんでもないように、そう提案してくるから。
なんだか、急に恥ずかしくなって、言葉が詰まる。いや、それが最善策なんだろうけど。(幸運にも明日、部活はオフだった)

「お前、明日部活は?」

「……」

「おい」

「……」

聞いてんのかよ。掴まれた手首をグイッと持ち上げられ、視線が音もなくカチリと合う。直後、「お前、なんつー顔してんだ」とデコピンをくらった。
痛みに驚く間もなく、唇が耳元に寄せられる。微かに違う熱が触れた気がして、心臓が跳ねた。

「んな顔してっと、ここで襲うぞォ」

「なっ、」

その言葉に、咄嗟に掴まれてる方とは逆の手で実弥ちゃんの胸板を殴っていた。
こんな時に、冗談が過ぎるでしょ。

「粂野先生がいるんだよ?馬鹿なこと言わないで」

「アイツなら明日の昼まで起きねェよ。試してみるかァ?」

「ちょっと、聞こえたらどうするの」

まるで学校の図書館にいる時のように、声を潜める。そんなわたしの気持ちなんかおかまいなしに、実弥ちゃんはニヤリと、意地悪な笑みを浮かべていた。
まずい、この笑みはいたずらっ子のそれだ。良くない気がする。逃げなければ。そう判断する前に、実弥ちゃんの長い睫毛が静かに揺れて、お互いの身体が近付いて、唇が重なる。

「──っ!」

そのまま舌が侵入してきたので、胸板に置かれたままの手に思い切り力を入れて突き放して、目の前の不謹慎な男を睨みつける。何考えてるのこの人。
わたしの凄みに怯むことはなく、楽しそうに笑う実弥ちゃん。そんな彼に、「ホントにやめて」と、強めの口調で牽制を入れた。

「チッ。仕方ねぇ、今度なァ」

「今度もへったくれもありません。永遠にしないでください」


キミが悪いよ悪いけど


そんな、安っぽいビデオじゃあるまいし
誰が喜ぶんだっつーの、こんなシチュエーション!
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エンドリケリーのジレンマ(kmt:さねねず)

そんなもんでお前を一生
縛りたくはなかった。
だけど、それ以外はお前に全部
くれてやってもいいと思ったんだ。


全ての戦いが終わり、何もなくなった毎日を過ごす日々。
平和を感じながらうたた寝をするような自堕落を絵にしたような生活の中で、俺の傍にはある女がついてまわるようになった。

「あ!実弥さん、また布団も畳まずにゴロゴロしてる」

暖かな空気に微睡んでいると、上から聞き慣れた女の声が降ってきた。
目を開ける。長い髪を後ろで束ね、俺の顔を覗き込んでいる女。
目を逸らしながら「今起きたところだァ」と言うと、嘘ばっかりと鼻息荒く返ってきた。

「ほら起きて、布団干しますから」

やいやいと巣から追い出され、俺が今まで横になっていた布団達は女に雑に畳まれ纏めて持ち上げられる。
仕方なく起きることにする。開け放たれた窓からは春の陽気のいい匂いがして、もうそんな季節かとぼんやり思った。
縁側に腰かける。思ったよりも日が高く、自分が思っていたよりもぐうたらしていたらしい。鬼殺時代の俺が見たら卒倒するだろうな。なんてどうでもいいことを考えている俺を雑に押しのけ、女は布団と一緒に庭へ飛び出し、手際よく物干し竿に布団を掛けていく。

「禰󠄀豆子」

女の背中に声をかけた。
忙しなくしていた女がこちらを振り返り、俺を見つめる。
腹減ったと言うとうんざりした顔になり自分で用意してくださいと一蹴された。

竈門禰󠄀豆子。
この女の名前だ。
何がどうあってこんな状況になったのか、始まりを語ると朧気だけど
実弥さんが心配だから、とか
痣の影響がどうの、とか
沢山の理由と掃除用具やら何やら抱えてやって来たのが、もう数年前だ。
嫁入り前の女を野郎ひとりの家に上げるのは気が引けたし、老い先短い自分を労る必要も無いと突っぱねたのだが、兄貴譲りの頑固な性格の女は次の日も次の日も俺の家にやってきた。
何度も何度も断ったのに凝りもせず山奥から毎度毎度やって来るから、負けを認めたのは俺の方。
以降、住み込みで身の回りの世話をしてくれてるこの女のことを、いつしか好きになっていて。
どうやら向こうも俺のことを好いてる、と知ってからは展開が早く、今は夫婦ごっこみたいなことをやっている。

……ごっこ、と言うと聞こえが悪いが、実際籍も式も挙げていないので、やることをやっていても俺達は「夫婦」ではないのだ。
そんなことを言うと、どうして籍を入れないんですかとコイツの兄貴にさんざどやされそうなので、まだ報告はしていないが。

「実弥さん」

不意に声をかけられ、心臓が跳ねる。
布団を干し終わった禰󠄀豆子が、心配そうに俺を見つめていた。

「春が近いとはいえ、まだ風が冷たいのであまり外にいない方がいいですよ」

「いいじゃねぇか、いい天気なんだし」

「良くないですっ。お身体に障りますよ」

「俺を軟弱者扱いすんじゃねェ」

すると、禰󠄀豆子は俺の両頬を自分の手のひらで包んできた。
柔らかな体温が広がって、自分の身体が冷えていることに気付く。

「あっほら、冷たい!もう」

離れようとする二つの手を素早く握って、そのまま自分の方へ引っ張る。バランスを崩した禰󠄀豆子は真っ直ぐ俺に倒れ込んできたので、そのままぎゅっと抱き締めた。

「あー、あったけぇ……」

「……」

さっきまできびきびと動いていた身体が、俺の腕の中にすっぽり収まっているのが可愛くて、なんだか意地悪したくなって。
露わになっているうなじを指先でそっと辿った瞬間、強引に距離を空けられた。
心なしか顔が朱に染まっているような。

「さ、……実弥さんの、す、助平!」

「あ?何もしてねェだろうが」

「いーえ、今のは絶対そうですっ」

「何が絶対そうなのかよく分からねぇなァ」

唇をわなわなと震わせ、言葉に詰まる禰󠄀豆子。何か反論したそうだったが、もういいですと不貞腐れてしまった。そんな表情も愛しくて。

「怒んなって」

「怒ってません」

「じゃあそっぽ向いてねぇでこっち見ろよ」

宙ぶらりんになっている禰󠄀豆子の手を握る。一瞬ビックリしたような顔になったが、すぐに元に戻った。

「禰󠄀豆子」

「…っ、」

唇を真一文字に結んでいた禰󠄀豆子だが、少しの間の後に口を開いた。

「……実弥さんの、意地悪」

目を伏せて潤んだ瞳でそう訴えてきたから、俺の中の汚くて野蛮な部分がむくむくと顔を出してくる。好いた女の色っぽい表情を見て我慢出来る男がいるだろうか。
立ち上がり、小さくなっている禰󠄀豆子を抱き上げる。

「きゃっ!」

落ちないように俺にしがみつくその必死さも、顕現した情欲を掻き立てるのには十分だ。

「えっあっ、実弥さん?」

「悪ィ、我慢出来ねェ」

今にも取って食いたい衝動を抑えながら、部屋の奥へと移動した。

***

実弥さん──鬼殺隊の柱として前線で戦っていた人──と、こういうことをするのは初めてではないのだけど、何回やっても慣れない。
傷だらけの腕に組み敷かれ、沢山の鍛錬でぶ厚く、固くなった掌で頬を撫でられ、骨太の指先で輪郭をなぞられる。
禰󠄀豆子。私を呼ぶ声が、どこか切羽詰まったように聞こえて、胸が高鳴る。握られている手にぐっと力が入って、実弥さんが私にのしかかって来た。

「……」

そのままピクリとも動かなかったので、不安になって名前を呼ぶ。すると実弥さんはシャキッと起き上がり、そのまま「湯と着替え持ってくるわ」と言い、部屋を出ていってしまった。
視線を落とす。どろりとした白い液体が下腹をゆっくり伝った。途端、急に切なくなる。
この行為がなんなのか、知らない訳では無い。最中、愛されてるな、と感じるし、丁寧に取り扱ってくれていることも分かっている。けれど実弥さんはいつだって、子種を私の中に注いだことは無かった。
実弥さんは、私との子どもが欲しくないのだろうか。こんなに好きなのに。そこまで考えて、思考が落ち込んでいることに気付く。ダメダメと首を振って雑念を振り払った。

***

湯と着替えを持って部屋に戻ると、禰󠄀豆子は目を閉じて寝ていた。
起こさないように布団に潜り込む。最初に会った時より随分と大人びてきたな、と寝顔を見て思った。
湯に手拭いを浸して身体を拭こうとする。と、気配を感じたのか長いまつ毛がゆらりと揺れた。

「ん……実弥さん」

身体を起こそうとする禰󠄀豆子に、いいから寝てろと声をかける。

「無理させちまった」

「ううん……」

大丈夫。寝ぼけているのか、敬語を使わない禰󠄀豆子は久々だった。貪りたい衝動がわき出るのを、奥歯を噛んでぐっと堪えた。
華奢な身体に手拭いを当てる。こんなに細い身体なのに漬物石や布団を平気で持ち上げるから不思議だ。コイツがいて、色々助かったこともある。指が欠けているというのは、生きていく上で存外不便だった。
最後に吐き出した精を拭き取って、ため息をつく。この行為に何の意味があるのだろう。ただ快楽を求めるだけのものなのに。

もし俺の最期が見えない程遠くにあったら、沢山の子どもや孫に囲まれて余生を幸せに過ごす。そんな未来があったかもしれない。
でも、すぐ近くに終わりが見えている命だ。俺の方が先に逝くと分かっていて、どうして俺の命の欠片を遺すことが出来ようか。
俺の苗字も俺の血も、コイツの足枷にしかならないと。

「なァ」

すっかり寝てしまった禰󠄀豆子に話しかける。当たり前だが、返事は無い。
起こさないよう頬を指先でそっと撫で、そのまま言葉を続ける。

「お前の傍にいた……髪の毛が黄色いヤツ。我妻だっけか。……アイツの方が──」

言いかけて、やめた。俺以外の男にコイツが抱かれる想像なんてしたくない。なんて面倒臭い男だと心の中で自分を詰った。

「……こんな俺の、何処がいいってんだよ」

溜息にも似た呟きは、誰に聞かれることもなく溶けて消えた。

エンドリケリーのジレンマ

(ねえ、どうしてそんなことを言うの)(私、貴方の全てが欲しいのに)
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